会社で何か問題が起こると、決まって「誰が悪かったのか」という犯人探しが始まります。
- あの人の確認不足だった
- 現場の意識が低い
- 若手のやる気がない
- 最近の社員は根性がない
そうやって現場の担当者や若手社員に原因を押しつけて、会議室では誰も傷つかずに終わる。そんな光景を、見たことがある人は多いのではないでしょうか。
しかし、本当にそれだけでしょうか。
問題が起きるたびに個人を責めているのに、なぜか同じ問題が形を変えて何度も繰り返される。だとしたら、責められているのは的外れな相手かもしれません。
「人のせい」にするのは、経営側にとって都合がいい
はっきり言ってしまうと、問題を個人の責任にすることは、経営する側にとって非常に都合がいいことです。
なぜなら、
- 仕組みを変えるにはお金と時間がかかる
- 労働環境を変えるには経営判断が必要になる
- しかし「個人の意識」を責めるだけなら、コストは一切かからない
からです。
始末書を書かせて、研修を一本受けさせて、「気を引き締めるように」と言えば、その場は収まったように見えます。けれど、現場の人手不足も、無理な納期も、複雑すぎる手順も、何ひとつ変わっていません。
つまり「人が悪い」という結論は、経営側が本当のコスト、つまり構造そのものを変えるコストを払わずに済ませるための、便利な逃げ道になっているのです。
システム思考には、こういう考え方があります。
人は悪くない。システムが人をそうさせる。
これは現場を甘やかす言葉ではありません。むしろ、これまで現場の人間ばかりが背負わされてきた責任を、本来それを負うべき場所、つまり仕組みを作り、労働環境を決める権限を持つ側に戻すための考え方です。
なぜ同じ問題が何度も起こるのか
例えば品質不良が発生したとします。
よくある対策は、
- 注意する
- 教育する
- 始末書を書かせる
- 「再発防止に努めます」と宣言する
です。
しかし数か月後、似たような問題がまた起こる。担当者を変えても、教育を強化しても、また起こる。
なぜでしょうか。
原因が人ではなく、仕事の仕組みの側に残っているからです。
- 人手不足なのに人を増やさない
- 無理な納期を現場に押しつけている
- チェック項目が異常に多い複雑な手順
- 慢性的な残業による疲労と集中力の低下
これらを決めているのは現場の担当者ではありません。人員配置も、納期も、業務フローも、経営側や管理職が決めていることがほとんどです。それを変えずに「気をつけましょう」と言い続けるのは、原因を放置したまま結果だけを叱っているのと同じです。
「悪い人」がいる職場ではなく、「悪いシステム」がある職場
工場で検査漏れが起きたとします。
担当者だけを見れば「確認不足だった」で終わります。
しかし一歩引いて見ると、
- 一人で複数工程を掛け持ちしていた
- 残業が何週間も続いていた
- チェック項目が50項目以上あった
- 仕様変更が現場に事前共有なく頻発していた
という状況だったかもしれません。
この環境に置かれれば、誰が担当してもミスをする可能性は十分にあります。それでも会社は「誰が担当していたか」だけを問題にし、「なぜこの環境を放置していたか」は誰も問いません。
問題は人ではなく、ミスを起こしやすいように設計されたシステムだった。そう考えるほうが、よほど実態に即しています。
「改善提案を出せ」と言う前に、出せない理由を見るべき
改善活動が形だけになる会社でも、同じことが起きています。
会社は「改善提案をもっと出そう」と号令をかけます。ところが現場は出しません。
そこで表彰制度やノルマ、インセンティブを導入します。しかし数か月すると、また元に戻ります。
これは、改善する意欲のある人がいないからではありません。改善しても報われない、あるいは改善しようとすると余計に損をするシステムになっているからです。
- 改善に取り組む時間そのものが与えられていない
- 提案しても現場の声として採用されない
- 改善しても評価にも給料にもつながらない
- 挑戦して失敗すると、むしろ責められる
この状態で、多くの人が改善を諦めるのはむしろ合理的な判断です。「やる気がない」のではなく、
「やる気を出す意味がない」
のです。それを労働者個人の資質の問題にすり替えてしまう限り、何も変わりません。
人間は、置かれた環境に適応しているだけ
人間は環境に適応する生き物です。
危険な環境では慎重になり、安全な環境では挑戦する。会社でも同じことが起こります。
失敗すると怒られ、評価を下げられる職場では、「余計なことはしない」という行動が、労働者にとって最も合理的な選択になります。逆に、失敗しても挑戦そのものが評価される職場では、自然と改善が増えていきます。
つまり、人が変わったわけではありません。会社という環境の側が、労働者の行動を作り出しているのです。それにもかかわらず「最近の社員は主体性がない」と嘆く経営者や管理職を見ると、少し違うのではないかと感じます。主体性を奪う環境を作っておいて、主体性がないことを責めるのは、筋違いだからです。
「安心して挑戦できる環境」については、コンフォートゾーンというテーマでも詳しく説明しますが、人が現状維持を選ぶのは怠けているからではなく、生き物として合理的な行動である、という話にもつながっていきます。
システム思考では、氷山モデルで考える
システム思考では、問題を次のように捉えます。
出来事 → パターン → システム構造 → メンタルモデル
私たちは表面に見える「出来事」だけを見て、「またミスした」「またやる気のない社員が出た」と言います。
しかし本当に改善したいなら、その下にある構造、そしてさらにその下にある「効率が全て」「現場は言われた通りやればいい」といったメンタルモデルまで見る必要があります。
見るべきは人ではなく、人にその行動を取らせている仕組みです。
「とりあえず研修」で終わらせる、一般的なコンサルの限界
こうした問題に対して、外部のコンサルタントが呼ばれることもあります。しかし、多くの場合その処方箋は「意識改革」「モチベーション研修」「マインドセットの転換」といった、耳障りのいい言葉で終わってしまいます。
経営者・管理者にとって、この手の提案は魅力的に映ります。労働環境や人員配置、評価制度といった構造そのものに手を入れる必要がなく、「対策を打った」という実績だけを残せるからです。仕組みを変えるコストと痛みを避けたい経営側と、耳障りのいい提案で契約を続けたいコンサルの利害が一致すれば、現場に何も変わらないまま「研修を実施しました」という報告だけが積み上がっていきます。
一方、労働者の側から見れば、こうした研修はしばしば「またか」という徒労感として現れます。同じ問題が形を変えて繰り返されているのに、毎回求められるのは自分たちの意識や心構えを変えることだけ。環境そのものは何も変わらないのに、変わることを期待されるのはいつも現場の人間だという構図に、うすうす気づいている人も少なくないはずです。
本当に労働者の働きやすさに向き合うコンサルティングであれば、社員の心構えだけでなく、労働環境や仕組みそのものにまで踏み込む必要があります。そこに踏み込まない限り、コンサルもまた、経営側にとって都合のいい「やっている感」を提供する存在で終わってしまうのではないでしょうか。
「人を変える」より「仕組みを変える」
もちろん、教育そのものが不要なわけではありません。
しかし教育だけでは限界があります。教育の効果は時間が経つと薄れていきますが、仕組みは変えない限り、毎日働き続けます。
例えば、
- チェックリストを簡素化する
- ダブルチェックを自動化する
- 業務のボトルネックを取り除く
- 情報共有をしやすい体制にする
- 適正な人員配置と納期に見直す
これらは、労働者の頑張りに頼らずにミスや負担を減らすための仕組みです。
改善とは、労働者に「もっと頑張れ」と精神論を押しつけることではありません。労働者が無理をしなくても、自然と良い行動を取れる環境を、権限を持つ側が責任を持って作ることです。
まとめ
職場で問題が起きると、つい目の前の人を責めたくなります。しかし、その人がいなくなっても同じ問題が起きるのであれば、本当の原因は別のところにあります。
人は悪くない。システムが人をそうさせる。
この視点は、経営者・管理者と労働者、それぞれに問いを投げかけています。
経営者・管理者にとっては、「誰が悪いか」ではなく「どんな仕組みがその行動を生み出しているのか」を問う責任があります。人員配置も、納期も、評価制度も、変える権限を持っているのはたいてい現場ではなく経営や管理の側です。個人の意識に問題を押しつけている限り、コストを払わずに済むかもしれませんが、同じ問題は必ず形を変えて戻ってきます。仕組みを変える痛みから逃げないこと。それが経営側に求められる姿勢です。
一方で労働者にとっても、この視点は無関係ではありません。ミスや不調を「自分の能力不足」や「根性のなさ」として一人で抱え込んでしまうと、本当は変えるべき仕組みが見えなくなってしまいます。「自分がダメだからだ」で終わらせず、「この状況で誰がやってもそうなるのではないか」と一歩引いて考えてみること。それは自分を守るための、そして声を上げるための、大事な視点です。
システムを変える力を持つ側と、システムの中で働く側。立場は違っても、見るべき場所は同じです。人ではなく、仕組み。そこに目を向けたときに初めて、責任の押しつけ合いではない、本質的な改善が始まるのではないでしょうか。
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